ネコネコ思想史

予選全対局が終わった後、僕はスマホにある将棋のアプリをアンインストールしていた。大量にブクマした将棋サイトをブクマから削除していた。一つ、一つ、消していくうちに、少し怖くなった。自分から将棋が消えたとき、自分という人間は殆ど無なのではないか。これから、将棋を完全に切り離して受験に全てを注ぎ込もうとして、果たして自分は自分でいられるだろうか。そう思ってしまった。

 

自分はなぜ将棋をやっていたのか。もしかしたら、自分にとって将棋とは自傷行為のようなものだったのかもしれない。

 

マジでこれ以上おもんない将棋指すくらいなら死んだほうがマシ なんで将棋やってるのかちゃんと考え直したほうがいい

「佐川急便」より

 

生きている意味みたいなものの大部分を、将棋に見出していた。将棋やってなかったらどうやって生きているかわからない。生きているかどうかさえわからない。(まあ多分生きてるだろうが) 勝てない自分を追い詰めて、自分には将棋しかないんだと、縛りつけることでしか前に進めなかった。けれど、自己否定を戦う根底にすることは限界がある。盲目的に自分の可能性を縛ることで強くなったと錯覚しようとしていた。けれど本当の強さとは縛られずとも走り出せることである。「自分には○○しかないから、やる」のではなく、「○○の他にも色々な可能性はある、でも僕は○○やる」からこそ選択は尊いのだ。それこそが自由意思であり、真の意味で"自分に由る"ということだ。

 

自分が将棋に(あるいは自分自身、人生に)感じていた閉塞感みたいなものはそこが原因にあるのだとしたら、僕は、今日、今から変えていこうと思う。自分が自分を嫌いになるようなことは一切やめよう。

 

「不思議と『恥ずかしい』という感情が湧いてこないですね」「なぜなら、わたくしこの時、頑張っているから」

これはVtuberである月ノ美兎が自身の活動を振り替える配信の中で何気なくこぼした言葉だが、本当に自分の中の基準に忠実に頑張っているならば、どんな結果になろうとそこに誇りを持てる。僕が目指すべきはその領域である。僕はこの高校将棋活動の中で、一度もその領域に行けなかった。それは多分、無限の自己否定で縛ることでどこか安心を得ていたからだと思う。しかし、もうそんな安心はクソ喰らえだ。とめどない自己否定なら行動で否定するまでだ。僕には、将棋が無くても生きていける。何にも縛られず生きていく。もし将棋を再開する時があっても、それは僕が将棋にしか生きる意味を見出だせないからではない。自分の力で新しい景色を見る為だ。

 

この記事をもってネコネコ思想史は完結とします。今までお世話になった方々、粗末な文を読んでいただいた全ての方々に感謝です。ありがとうございました。